犬にしてくれ

卑屈の森からリア充を目指して右往左往する様を克明に

合コンで自己肯定して終わった

さて、もう少し合コンについて掘り下げて考えてみます。

 

彼氏がいる身ながら図々しくも何回か合コンに混ぜてもらっていると、「なんで彼氏がいるのに合コンに行くの?」と聞かれることがありました。先輩の誘いで断れなかった、相手が特殊な職業だったため話してみたかった、などともっともらしい理由で周囲を納得させていましたが、わたしが参加する最大の理由は、自分が世間でどれほど通用するのかを確認したかったからです。

 

25歳ではじめて彼氏ができました。そのこと自体は幸せだけれど、友達から「彼氏がいて羨ましい」と言われても、ちっとも嬉しくありませんでした。現状のステイタスがお互いたまたま異なるだけであって、人生の時間軸で考えたらあなたの方が圧倒的に彼氏がいた時間を楽しんでいたじゃないかという劣等感が常にありました。今でも、15歳から彼氏がいる子と25歳で初めて彼氏ができたわたしの間には越えられない壁が立ちはだかっているという気がします。ただどこかで、そんなことで優劣をつけるのはおかしいと気づいてもいましたし、この先ずっとこの劣等感を持ちったまま生きていくのは辛いな、とも感じていました。

また自分の女性性を信用できないせいで、彼氏ができても不安が消えることはありませんでした。どこかで「この人が特殊なだけで、わたしは基本的に誰からも好かれない。万一この人に振られたら、わたしは一生恋人を作ることもできずに孤独死する」という焦燥感がありました。

 

一方で、彼氏ができてから無意識のうちにわたしには変化が表れていました。

 

顕著なのはSNSにおける振る舞いで、Facebookでは所謂リア充な投稿が増えました(もうリア充って言わないと思うのですが、他に言葉がわからないので貫きます)。正確に言えば、もともと「会社の同期とフェスに行ったぜ!」とか「中高の友達を家に招いてタコパをしました!」という投稿をしてはリア充を演出していたのですが、わたしは徹底的に「写真撮って」「写真撮ろうよ」が言えない人間だったので、必然的に「わたしが大勢でわいわいしているみんなを撮る」という構図の写真を多く投稿していました。

「写真撮って/撮ろうよ」と発言した場合、同行者にスマホを託し、自分がそれなりに良く見える角度とポーズを決めて、それを人様に見られてもいいものと判断してアップロードする、という手順を踏まなければいけないわけです。それを、自分の自意識がどうも許さなかった。まずファーストステップの「写真撮って/撮ろうよ」が言えないという…大袈裟に言うと、「自分は被写体として耐えうるレベルの容姿である」と喧伝する自信が無かったのです。

それが彼氏ができてから、「写真撮って」とか「みんなで写真撮ろう」と言えるようになりました。今までの被害妄想はわたしの「女子」としての自信の無さに由来するものですが、恋人ができるというのはわたしの「女子」を受け入れ好いてくれる人が現れたということです。親以外の誰かから受け入れられるという経験は、わたしの被害妄想をたいへん和らげました。さらに不思議なことに、彼氏だけでなく今まで言えなかった友達相手にも自然に写真の発言ができるようになりました。友達はわたしが今までそんな被害妄想を持っていたことなど知る由もないですし、他人の被写体としての回数など気にも留めていませんから、何の違和感もなく「撮ろう、撮ろう」と同意してくれます。こうしてわたしは頭ではわかっていてもなかなか払拭できなかった被害妄想を、徐々に徐々に薄めていったのでした。

そしてわたしがそれに気づいたのは、「あなたの投稿は面白くなくなった」という友達からの指摘によるものでした。その頃、育てているアボカドの成長記録を日々アップしていたのですが、確かにそれは今まで「こんなわたしの日常のひとコマをアップしても誰も見ない」と思ってわたしが敬遠していたものでした。それらを無意識に投稿していたなんて。わたしはハッとしました。一度誰かに受け入れられるという経験はここまで人への警戒を解くのかと、目から鱗が落ちました。

 

時を同じくして、わたしが別の友達に前述の「孤独死に対する恐怖」を切々と語っていた時、彼女は言いました。

「今のあなただったら大丈夫だよ、だって”一度愛されましたオーラ”出てるもん」

そんなオーラは一生自分からは出ないと思い込んでいたわたしは驚愕しました。それはものすごく微々たるものかもしれませんが、でも友達はそれを感じ取ることができた。

そのオーラの出現は、わたしのSNS投稿の変化と無関係ではないはずです。わたしは一度他者から受け入れられたことで、確実に人に対する鎧が淡くなったと実感しました。

 

でも、それがどれくらいの振れ幅のものかはわかりませんでした。少しレベルが上達したとて、結局世間には通用しないかもしれない。でももしかしたら、自分の思う「人並み」に近づけているのかもしれない。自分の変化を確かめたい、という理由でわたしは合コンに赴きました。わたしのことを先入観のない状態で査定して、判断してもらいました。

結果、素敵だな、と思った男性からご連絡をいただけました。

 

これは革命的な出来事でした。彼氏と別れたいということではありませんが、この先何か起きたとしてもどうにかなるだろう、わたしを受け入れてくれる人はこの世界に一定数いて、わたしはその人たちとうまくやっていけるだろうと思うと、少しだけ生きるのが怖くなくなった感覚がありました。

未来は先が見えないし、何があるかはわからない。状況は1ミリも変化していません。けれども、先を見るわたしの気持ちが「絶望的にお先真っ暗」から「どうにかなるかもしれない」に変わった。これは大きな進化です。

 

なにも合コンに限らずともいいのですが、合コンに行って、他にも今までできなかったことができるようになっていると気づきました。

恋人の有無を聞かれるたびに「いないとわかりきっているのに質問形式にさせてしまって申し訳ないな」と思っていましたが、つっかえることなく返答できるようになりました。異性の好みの話題になれば「この人はわたしになんの興味もないのに、沈黙を埋めるためにそんな質問をさせてしまって申し訳ない」と思うと答えるのが億劫でしたが、素直に会話を楽しめるようになりました。

だからわたしは合コンに行って良かったな、と思います。自己を肯定する戦として合コンに挑み、見事勝利した、と思っています。

 

もちろん今でもできないことはあって、例えば未だに彼氏のことを人に話すときに「彼氏が…」と言えません。ブログでは便宜上そう書いていますが、脳内のわたしが「彼氏とか言える身分かよ」とわたしを牽制してくるため、日常では口にすることはありません。人に甘えるのも下手ですし、おねだりもできません。合コンで自分をご褒美ポジションに置ける女の子は異星人のようです。

 

革命は確かに暮らしを一変させるものだけれども、その先を担保するものではありません。暮らしを今後も支え発展させていくのは日々の積み重ねです。自分の内なる変化を楽しみつつ、自意識と折り合いながら年を重ねていきたいところです。