社会的なパグ

フェミニストなのに広告会社にいる。迷いながら生きています。

【広告】カネボウブランド広告

■概要

ターゲット:化粧をする人(性別国籍問わず)
ブランド広告をTV、WEBで放映。ほかWEBや雑誌タイアップなど。商品もリニューアル。

 

化粧を「人を力づけるもの」と捉えブランドとしての立ち位置を示した広告を制作。第二弾では化粧は生きる上では必要のない(不要不急の)ものだとしながらも、化粧を施すことでその人に力を与えられることを訴求した。

f:id:isunoue:20200829010647p:plain

 

■炎上したポイント

①「生きるために、化粧をする。」というコピー

このコピーに違和感を覚えた、というのが今回の主な争点になるが、その中でもいくつかポイントがあると考える。

 

・「化粧=女性のもの」という前提に対する違和感

カネボウ ブランド広告の第一弾では、「見た目を美しくする」という化粧の役割(そしてそれは多くの場合女性を対象としていた)を否定し、化粧を施すことでその人に力を与えるという新しい化粧の役割を説いた。
ちょうどSNS上でも化粧をし身だしなみを整える女性の「努力」を「当たり前のマナー」とされることに違和感を覚え、声を上げる人が増えている中で、この広告は多くの人の共感を得て支持された。

そして第二弾では「何のために化粧をするのか?」という問いかけを切り口に、「(自分らしく、力強く)生きるために、化粧をする」、そのためのブランドとしての立ち位置を明確に示す意図があったように思う。

この文脈を理解したうえで、それでもこの広告が「化粧=女性のもの」という印象を受けるのは、インサートに流れる様々な化粧をする人が全て「女性のような見た目」の人達だからではないだろうか。民族の方は別として、「見た目が女性のような男性」は出てくるけれども、「男性として化粧をする」人は出てこない。
言葉以外の表現から「化粧=女性」という作り手の無意識を感じ取り、そこに違和感を覚えた女性が多かったのではないだろうか。ブランドとして多様性を示すのであれば、「男性として」化粧をする人が入っていてもよかったのではないか。

(敢えて「女性」「男性」という書き方をしていますが、見た目と性別を結び付けたいという事ではないです。また、井手上さんを”女性”と定義するという意図もありません)

 

・インサートされる人々の意図がわからない

途中でインサートされる中には、どこかの民族の化粧も入ってくるが、現代の日本人がする化粧と彼らの化粧は全く違うと考える。

民族の人々のそれは宗教的な理由だったり、虫よけや日焼け止めなど機能的な役割もあるかもしれない。その化粧を施すことがその民族のアイデンティティとして成り立っていることもある。それはカネボウの示す「化粧」と同義だろうか?

対して日本の化粧にはそのような役割は当然ないが、「生きるために~」のコピーと相まって、個人的には「この民族の人達と同じように化粧することが当たり前だと思われているのかな?」と勘繰ってしまった。。

 

②メーカーからの提案に対する反発

メーカーからの価値観の押し付けにユーザーがうんざりしているのではないかとも思う。
この広告が流れたのはコロナ禍で在宅ワークが浸透している時期であり、化粧から「解放」されている人も多かったため、言葉の意図はともかく「生きるために、化粧をする。」という義務感を感じさせるような言い回しに共感できなかった。

 

■どうすれば良かったのか?

カネボウの第一弾広告はとても好意的に受け入れられており、だからこそ第二弾である意味手垢のついた「生きるために化粧する」という言葉にがっかりした人が多かったのではないかという感覚がある。

立ち止まって考えれば、「(自分らしく)(力強く)生きるために」という意味合いがそこに含まれており、従来の化粧を女性に強いる考え方とは違うことはわかるのだが、動画全体から溢れる「化粧=女性」「生きるために化粧をする」というフレーズに対する嫌悪感があったのだと思う。これまでずっと言われ続けて、もううんざりしていた暗い色の言葉だから。

制作側は第一弾の文脈を以てすれば伝わると判断し、敢えてチャレンジングな言い方をしたのかもしれないが、これまで化粧が負わせてきたものを考えればあまり適切なコピーではなかったのかもしれない。

メーカーができるのはユーザーに寄り添うことまでで、それによってどう生きるかは自分で決める。個人的には「エンパワメントする(したい)」という趣旨のことを言ったり、化粧によって広がる未来を提示し、選ぶのはあなた、という言い方をしたらまた印象は違うのだろうなと思った。