社会的なパグ

フェミニストなのに広告会社にいる。迷いながら生きています。

「結婚の奴」読書会

「だまされたと思って能町さんの『結婚の奴』を読んでほしい」twitterで言いまくってたら、だまされたと思って友人2人が読んでくれたので、3人で読書会を開くことになりました。

まぁわたしも初めてなのでこれが所謂「読書会」なのかはわからないけど、本を切り口に、共感したこととか、身の回りでもやっとしたこととかをお喋り。いつも会う友人でも、普段は見せない一面を見せてくれて、個人的には友人との新たな関係も築けた気もするし、ひとりで本を読むより二倍も三倍も本の世界を理解できた気がしました。
(関係無いけど、中高生の時に読書会をしている人を見て「なんの目的で?」とか「なにが楽しいんだろう?」と思っていたけど、彼女らは若い頃から本を何倍も深く味わう楽しみを得ていたのだ…わたしとの共有の深さの違いよ…)

まずびっくりしたのは、みんな日頃から「シングルの女」だということで不便や被害をめちゃくちゃ被っていること。「彼氏がいない女」だから、周囲の男性から値踏みの対象にされたり、「独身の女」だから、一人前扱いされずに仕事の面でもナメられたり。もうそれが煩わしくて彼氏が欲しい、結婚したい、と言う。もちろん結婚はひとりではできない(と現状はされている)ので、こんな理由で結婚に同意してくれる人もいないしな~なんて愚痴ったりなど。
正直わたしは自分に対して心無いことを言われたり、自分が直接「被害」に遭ったことが全くなく、もともとモテない側の人間なので(多分恋愛に興味がないと思われているので、恋愛話で盛り上がることを期待されていない)幸か不幸か値踏みの対象にされたこともないし、期待されなかったせいか「女だから●●」と言われることもそんなに無かった気がする。(男性ばかり打合せで女性目線的にはどう?と言われて、「わたしが女性代表のように聞かれても…」と思ったことはあるけど)
そんな中でもこれまでの人生でいくつか感じることのあった違和感の蓄積だったり、会社の人が妻のことを話す時に「ん?」って思ったりとか、周囲の男性がわたし以外の女性に向けて発する態度を勝手に敏感に感じ取って怒りを覚えていました。

だけど、身近な友人がまだそんな目に遭っているのかと思うと、自分が直接被害に遭っていなくても、ちゃんと良くないことは言わないといけない、と改めて思いました。
自分の中のスクールカースト高い男子が「いやお前はなんの被害にも遭ってないじゃんw」と言ってくるのだけど、わたしが実際迷惑を被っていてもいなくても、もうそれに目覚めちゃったからにはわたしは言わないとだめなのだ。弱気になるわたしの心を、自分の中の田嶋陽子さんが支えてくれる。

そして、関係性が近しい人ほど自分の意見を言えなくなってしまうというジレンマ。家族や彼氏など、関係が近くなればなるほど、関係が壊れることを恐れて口を噤んでしまう。もしくは、それを指摘しなければ、「自分の気のせいかも」と思っていられる。
「家族だから言わなくてもわかってもらえるはず」とか、逆に「話せばわかってくれるはず」とか。「家族」というのは時にものすごくめんどくさい。そうやって、家族に伝わりきらない時は余計に凹んじゃうものなんだよなぁ。。

友人が興味深い経験を話してくれました。

曰く、彼女は両親、姉、彼女の4人家族なのですが、父がザ・男尊女卑な昭和の父親で、妻(友人の母)に対しての態度が横柄でめちゃくちゃ酷かったらしい。家のことは全くやらない(できない)、母の意見は全く意に介さないなどなど。若かりし頃の友人が見ても「これは酷い」と思うほどで、娘から注意したこともあるらしい。
月日は流れ、娘二人はそれぞれ独立しています。彼女の姉は結婚して子供がいるのですが、義兄は男女平等な思想の持ち主で、子供の世話も率先してやるタイプ。
義兄が子供の世話や家事をすると、姉は普通にお礼を言う。母や妹はめちゃくちゃ褒める。そんな義兄を見て、父もハッとするところがあったようで、それ以降、少し家のことをやりだした、というのです。

友人が言うには、自分や母、姉がなにか言ったとしても絶対に聞き入れなかっただろう、とのこと。自身と同じだろうと思っていた義兄が予想外の姿を見せたことで、ようやくそれ以外の生き方があることが見えたらしい。
これは発見!という気持ちと、そこまでしないとわからないのか…という気持ちと、正直半々。でもまあ確かに、「同じ内容でも”誰が言うか”で受け手の印象がだいぶ違う」って言うのは往々にしてあるよね…。わたしも、「わたしが言っても聞き流されるけど、おじさんが言うと納得される」という経験、仕事でよくあります。涙
小娘が言っても流されちゃうけど、経験豊富なおじさんが言うとご納得いただけるんですよね…
(ていうかこれも「わたしが若い女だから」なのか?)
(でも逆に、女性をターゲットにした商売についておじさんが話しているのを見ると「おじさんになにがわかるんだろう?」と思ってしまう自分もいる…)

友人の父の場合、父にとって義兄はいわば「逆ロールモデルのような存在だったと推察します。自分と同じだと思っていた、自分が敷いたレールの後ろを走っている、と信じていた存在が、真逆の振る舞いをしたことで、ようやく男女平等を自分の問題として認識できた。
極端に言うならば、彼にとって妻や娘は違う国の人。さらに言うならば自分より目下の国の住人でした。彼女らからいくら道徳を説かれても、それはよその国のことであって自分の国は違うルールで動いているので取り合わない。しかし同じ国の住人だと思っていた義兄は、なんと妻や娘の国のルールで動いている。
父にとっては目下の国のルールに合わせていることもびっくりだし、それでいてめちゃくちゃ褒められていることもショックだったことでしょう。そこで、目下の国でも良いものは良い、ていうか、自分が目下だと思っていただけで実は対等だったし、自分が国境を引いていただけで実は同じ国にいたことに気付いた、ということだと思います。

何かを伝えたい時に、相手にとってのカリスマよりも、相手にとっての逆ロールモデルが、影響を与えることもあるということ。
最近、「メディアが与えるジェンダー観」というのがわたしの中でひとつのテーマで、わたしはそっち系の職業なので、自分になにかできないかを考えているのですが、これはひとつ手がかりだなと思いました。
往々にしてカリスマ(年長者)の意見って変えにくかったりするし、それだったら、若い同士を見つけてその人を盛り立てていくとか。前述の通り、自分自身、「誰が」発言しているかをフィルターにかけてしまうことは自覚があるので、ひとつの有効な手段だなと感じます。


「結婚の奴」から飛び火していろんな話に発展したので、能町さんの想いとはまた違うところにあるかもしれないのですが、本を皮切りに日頃の想いをあれこれ話せて、読書会、まじで有意義だった~。

同士が3人集っても、それぞれ背景が違うから経験も違うし、それを共有できるというのは貴重な経験でした。また違う本で開催したいなー